2007年

ーーー7/3ーーー 登山靴の修理

 30年以上に渡って使ってきた登山靴が、ここへ来てついに底が剥がれてパクパクするようになった。松本のスポーツ店に持参して、修理を頼んだ。

 ゴム底がすり減って交換するというのは普通のことだが、今回はゴム底が付いている革の部分(ソールと呼ぶらしい)も傷んでいる。その部分まで取り替えるので、大掛かりな修理となる。見積もりを出してもらったら、他のこまごまとした部分の直しも含めて、2万円ということだった。ちょっと躊躇する金額ではあったが、このグレードの登山靴を新調すると5〜6万円するから、思い切って修理をすることにした。

 この靴は大学山岳部時代に、冬山用としてオーダーしたものである。冬山用といっても、特に耐寒性能が良いというものでもない。要は夏用と冬用を分けていたというだけのこと。夏に使う登山靴は、岩登りなどで乱暴な使い方をするから、形が崩れて来る。それを冬に使うと、アイゼンを固定するバンドで締め付けられて、つま先の血行が悪くなり、凍傷にかかり易くなる。そこで一足は冬専用に用意しておくというわけだ。今では登山用具が発達しているから、事情が違うかも知れないが、昔は先輩からそのように教えられた。ちなみに冬山用の靴は、雪の上ばかり歩くから、ゴム底がいつまでも減らずに新品のようだった。

 夏用の靴は、はるか昔にボロボロになって捨てられた。それからは、四季を通じてこの靴を使って来た。もう岩登りも、本格的な冬山もやらなくなったので、この靴一足で済ませることにしたのだった。もっとも雪の無い時期は地下足袋を使うことが多かったが。

 修理から戻って来た靴は、底の周囲だけが異様に綺麗になっていた。

 この靴を使った登山の予定は、今のところ決まってないが、この状態に直してあれば、いつでも使うことができる。この靴なら残雪期の山でも安心だ。ちょっとした支出ではあったが、無駄にはならないだろう。逆に、この修理を無駄にしないよう、ちゃんとした登山を続けて行かねばならないと思う。

  


ーーー7/10ーーー パソコンの悩み

 
パソコンを買い替えようかと迷っている。現在使っているのはMac G4 Cubeという、7年前のモデル。じつは借り物である。借りたままずうっと使って来た。貸してくれたのは工業デザイナーのA氏。当時パソコンに対して否定的な態度を取っていた私に対して、「こうでもしなけりゃ大竹さんはパソコンに手を染めないだろう」と言って、新品を一式貸してくれたのだった。今考えても、ありえないくらい親切な行為である。

 ずるずると借りたままにしておくのは気が引ける。というような年月はとっくに過ぎてしまったが、壊れる前に返納するのが得策であることは間違いない。問題はその決断を何時するかである。

 比較的近い場所に、Macのプロショップがある。そこへ出掛けて、こちらの希望している事を述べ、見積もりをしてもらった。そうしたら、バカ高い金額だった。それをリースでという話。パソコン本体に各種ソフト、補助機器、それにアフターサービスの料金が加算されていた。

 近所にMacを使っている人がいるので、電話でその店の評判を聞いてみた。その人は、買った事は無いけれど、若干の付き合いはあるとのこと。信頼できる店との評判だし、その見積もり内容は、考え方によってはリーズナブルだとの見解だった。以前Macのトラブルでさんざんな目にあったらしい。アフターサービスがしっかりしているなら、それに多少のコストがかかっても仕方ないという意見だった。

 もう一人、木工のベテランで、iTにもめっぽう強い遠方の知人にメールで相談した。その人もMacを使いこなしている。意見は180度違っていて、そんな無駄な金を使う必要は無いとのことだった。ショップまかせにせず、自分で情報を集めて対処すれば、はるかに良いものが安く実現できると。その人は何ごとに対しても積極的に取り組み、自分の頭と手で解決していくという、並外れた能力の持ち主である。私のようなものぐさ男とはレベルが違う。私には、父の気質を継いだのだろうか、金で済むことなら他人にまかせて、しかも気に入ったら少し多めに払うという、悪い傾向がある。

 私はこれらの異なる意見を聞いて、たとえ話として、庭木の手入れを自分でやるか、植木屋に頼むかという選択肢を連想した。

 自分で庭木をいじることが好きな人なら、植木屋に頼むということは、金がかかるだけでなく、楽しみも奪われてしまうことになる。植木屋の方が技術は上でも、自分で庭を作っていく喜びというものは、当人にとっては捨て難い。ましてや、ただ綺麗にということでなく、植物の生態などに興味があるならば、自分の手で庭木を育てた方が楽しいに決まっている。

 一方、植物に関心が無い人もいる。しかし、庭を綺麗にして、見映え良くしておきたいという願望はある。そのような人は、迷わず植木屋を頼むだろう。金はかかっても、その時間を自分は別のことに使えるのだから、損は無い。それに植木屋は責任を持って仕事をしてくれる。下手に素人が手を入れて、庭を台無しにしたら元も子もない。

 さあ、私はどうしようか。



ーーー7/17ーーー 白川郷にて

 白川郷を旅する番組を見た。合掌造りの家が民宿になっていて、宿の主は客あしらいが板に付いていた。毎年たくさんの観光客を迎えているのだろう。その番組を見て、以前同じ地の宿に泊まったときの出来事を思い出した。

 それは木工家が数名で、岐阜高山から富山方面へ取材旅行に行った途上であった。白川郷で合掌造りの民宿に泊まった。民家としては国内最大級の大きさの建物である。そこに泊まることも、木工の取材の一部に位置づけられていた。

 建物の内部はいかにも観光地らしく、わざとらしい品物で演出されていた。そして、囲炉裏端に座ったお爺さんが、まるで暗記したシナリオどおりといった感じで、客に説明をしていた。

 泊まった翌朝のことである。木工家ご一行のリーダーであるA氏が、部屋の襖のたてつけが悪いと言い出した。ギシギシとこすれて、スムーズに動かないのである。そして、宿の人からローソクを借りて来るように言った。私は例の囲炉裏端の爺さんのところに行って、ローソクを貸してくれと頼んだ。爺さんは怪訝そうな顔をして、貸すのは良いが何に使うのかと言った。私が理由を説明すると、爺さんは奥からローソクを持って来て、渡してくれた。

 木工家たちは手分けをして、襖の敷居や鴨居にローソクをこすりつけた。こんなことでも動きはたいへん改善される。スムーズに開け閉めできるようになった。ついでに他の部屋の襖も手入れした。さらに、多少の不具合がある箇所を、直せる範囲で修理をした。

 朝食を取るために囲炉裏の部屋へ行った。爺さんは我々を見ると、「うちには数多くの客を迎えてきたが、あなたたちのような人は始めてだ」と言って、頭を下げた。A氏は、「こういう些細なことでも、家の持ちが違いますよ」と返した。

 私はいささかの感銘を受けた。宿を出た後、移動中の車の中で「良い事をしました。気持ちが良いです」と述べた。そしたらA氏はこう言った「木工に携わる者として、当然のことをしたまでだ。木に関わることで具合の悪いものがあったら、黙って見ちゃおれん。思わず手を出したくなる。そういうもんだろう、プロというものは」。
 
  

ーーー7/24ーーー 有明山登拝

 
有明山神社は、私の自宅から西へ2キロほど登ったところにある。神社の裏手には、有明山がそびえている。その有明山をご神体としている神社である。我が家が位置している地区の氏神様は別の神社だが、私はもっぱら有明山神社に足を運んで願い事をする。初詣には必ず行くし、体力作りのためのランニングで駆け上がり、一礼をすることもしばしばある。

 その有明山神社が主催する有明山登拝という行事が、22日に行われた。毎年この時期に行われる、恒例の行事である。私は今まで参加したことが無かったが、今年は何故か行ってみたい気になり、参加を申し込んだ。

 有明山は、登山路が険しいことで有名である。山頂に至るコースは3本ある。松川村から登るもの、中房温泉から登るもの、そして今回の黒川から登るものである。私は以前、松川村からと中房温泉からの二つは登ったことがある。いずれもたいへん厳しいものであった。今回の黒川からのコースは、他の二つが裏側から登るのに対して、安曇平から正面に見える側を登るものである。それで、表登山道とも呼ばれている。このコースも非常に険しいと、地元の評判であった。

 朝まだ暗い4時に有明山神社に集合。社務所で受付を済ませる。参加者は男性37名、女性13名の総勢50名。ちょっとした集団登山である。

 全員が集まったところで、宮司が登山の無事を祈願する。そして先達を務める白装束の神主が、注意事項を参加者に伝達した。その中で、「今回は登山ではなく登拝であることを忘れないように」との言葉が印象に残った。

 登山口へ移動して、登り始めたのが5時。黒川の沢沿いに2時間ほど進む。どん詰まりに滝があり、そこから右手の尾根へ急斜面を這い上がる。滝までは比較的緩やかな道だが、滝に着くまでに4名がリタイアして、係に付き添われて下山した。

 尾根に取り付いてからは、鎖、ロープを頼りに、木の根を掴んでよじ上るような急勾配が続く。手を使わずに歩いて登れる部分は、ほとんど無いくらいである。これは聞きしに勝る険しいコースだ。天気は小雨。晴天で暑いのも困るが、雨に濡れて泥にまみれるこの登りも、辛いものがあった。

 参加者はほとんどが中高年である。そして、きちんとした登山ルックに身を固めているところを見ると、それなりの登山経験があるように思われた。こういう所にも、中高年登山ブームの影響が感じられた。中には普段着のような格好に運動靴という人もいたが、これは地元の関係者である。私はと言えば、ジャージに地下足袋。地下足袋を履いていたのは私一人だったが、これは予想外であった。

 これだけの人数だと、サッサと登ることはできない。歩いたり立ち止まったりを繰り返す。ペースは非常に遅い。事前に登り7時間と聞いて、まさかそんなにはかからないだろうと思ったが、実際に山頂に着いたのは、12時ちょうどであった。
 
 山頂には有明山神社の奥社と呼ばれる祠がある。その前で神主が祈祷をし、笛を吹き、お祓いをした。参加者一同、かしわ手を打ち、頭を下げる。そしてお神酒をちょこっと頂いた。

 昼食を取り、下山を開始したのが1時半。3時間ほどで下山できるだろうと聞いて、そんなにはかからないだろうと思った。しかし、下山地である中房温泉に着いたのは、5時半であった。この下山路も、しばしばロープが現れる、険しいものであった。年配者は疲れが足にきたようで、よく滑ってころんでいた。

 中房温泉有明荘での入浴も、行事に含まれている。参加者は、あらかじめ着替えを袋に入れ、名札を付けて主催者側に預けてある。それが車で運ばれていて、ここで受け取るという仕組み。なかなか気が利いている。風呂から上がると、マイクロバスが待っていた。それに乗って神社に戻った。そして社務所の二階の広間で直会を行い、さんざん飲み食いをして、8時半頃お開きとなった。

 充実した一日であった。天気は小雨模様であったが、それが深山幽谷、原生の森のたたずまいを、一層印象深いものにしていたように思う。その中で、見知らぬ者どうし、助け合い、協力しあいながら無事に目的を遂げることができた。普段は無い、貴重で楽しい経験をした。これも有明山の神様のお導きかと思う。神社の行事に費用のことを言うのは無粋かも知れないが、これで参加費3500円なら、満足だ。

 ところで、登山道にはところどころに小さな祠や石碑があった。そのなかには、昭和初期、あるいは明治時代のものもあった。昔の人は、現代よりもさらに不便な状況で、この山に登拝したのだろう。疫病や凶作といった災いから逃れるために、辛く苦しい思いをして、また危険な状況を顧みず、山頂の奥社に詣でたのだろう。その強い意志の力には、想像を絶するものがある。今回辿った厳しい登山路は、あらためてそのような思いを起こさせた。

 しかし、と思う。彼らは真に宗教的な理由のみで登拝したのだろうか。ひょっとしたら、年代の違いを超えた冒険者魂というようなものが、いつの時代にも一部の人の中にあったのではないか。それが宗教の名を借りて、登山行為の形となって実行されたのではないだろうか。今でも、地方によっては、何の実利も伴わない登山という行為に、白い目を向ける風潮がある。要するに道楽だと言うのである。昔はもっと風当たりが強かっただろう。しかし、それを宗教的行為と位置付ければ、白い目を向けられるどころか、尊敬と感謝の目で見られるようになる。

 宗教を隠れ蓑にして、冒険登山という道楽を楽しんだなどと言うと、言い過ぎかもしれない。しかし、冒険というものは、もともと未知の物との遭遇を目的にしている訳だから、その楽しみを求める心が、宗教という神秘の世界と結び付いてもおかしくはない。宗教とは何の関係もない登山の最中でも、荘厳な光景に接して神の世界を感じることがある。冒険登山と宗教が、自然な形で融合することも、有り得ないことでは無かったと思われる。

 槍ヶ岳を開山した播隆上人も、現代に生きていれば、世界の高峰を目指す先鋭的登山家になっていたのではなかろうか。 
 
 

(画像は自宅の裏から見た有明山。今回の登山路は、手前の小山との間の谷を右へ斜上し、最後はスカイラインをたどって山頂に至る) 




















ーーー7/31ーーー 椅子の改造

 1993年に設計をして、世に出した椅子がある。何脚か作って納めたが、私自身としてはあまり座り心地が良くなかったので、気持ちが入らなかった。また、その当時の私の腕前では、制作するのにたいそう時間がかかり、それを金額に換算するとどえらい価格になってしまった。そんな理由で「難しいアイテム」となったその椅子は、その後商品のラインナップから外れてしまい、忘れ去られたような存在となった。

 その椅子がこのたび復活した。あるお客様が、ダイニング・テーブルと椅子4脚のお引き合いを下さったのだが、椅子を全て違う形にして欲しいと言われた。編み座で統一するという条件を満たすならば、自信を持って勧められるのは、Catアームチェア06SSチェアの3種類しかない。そこで、前述の椅子を思い出した。それを4番目の椅子にすることにした。ただ、座り心地に難があると感じているものを、そのまま納めるのは問題がある。元の図面に手を入れて、修正版にすることにした。

 まず座面まわりを変更した。図面と、自宅に一脚だけ残っている現物を見ながら、座枠の寸法と位置関係を調整した。この14年間の間に、私の座編み椅子もそれなりに進化を遂げている。今の私から見れば、1993年当時のこの椅子には、はっきりと指摘できる難点がいくつかあった。それを、最新のノウハウで修正した。

 次に、背もたれの位置と形状に手を入れた。この方面についても、年月が経つうちにいろいろなことが分かって来た。それを反映させることにした。背板の最適な高さと角度と形状を古い図面に落し込むと、オリジナルとはずいぶん違った位置に背板が配置された。ずいぶんと言っても、数センチのことである。しかしその違いは明瞭であり、座り心地に大きな影響があると思われた。古い図面に重ねて書き込まれた新しい図形は、正しい位置から微妙に外れて置かれた、福笑いのピースを連想させた。

 言葉で表現すれば簡単なことであるが、実際に図面を変更するのは、けっこうな手間である。元々自分が書いた図面なのに、意図が読み取れない部分が有ったりする。そこを想像し、理由付けをした上で変更をしないと、整合性が取れなくなる。誤りを内在した図面で制作に入れば、途中で破綻することは目に見えている。特にこのタイプの椅子は全てホゾ組みで構成されているので、作りながら調整をするということがほとんどできない。図面どおりに部材を加工して、組み立ては一発勝負なのである。

 納期が迫っているので、失敗は許されないというプレッシャーがあった。組み上がるまでは冷や汗ものだった。普通、椅子の設計を確定するプロセスには、十分な時間的余裕をみる。ここで焦ると、後でやり直しになり、かえって余計な時間を取られるからである。しかし今回は、そのような余裕は無い。ぶっつけ本番の様相を呈していた。

 この椅子、最終的には座編み加工に出して完成となる。しかし、座面が完成した後で、形なり座り心地なりに問題が発見されたのでは、座編みの加工賃が無駄になってしまう。そのため、組み立てのどこかの段階で、行くか戻るかの決断をしなければならない。その一つのチェックポイントとして、組み上がった椅子の座枠に板を載せて座ってみる。背板の当たりを見るのである。このときに背板が上手くフィットすれば、座編みをした後でもほぼ問題は無い。板を載せてその上に腰を降ろすときの緊張感、当たり外れがこれで決まるワクワク感は、かなりのものである。

 背板の当たりは良好だった。一発勝負で決まったのである。今までの経験から言えば、これはラッキーなことである。もっとも、過去の経験の蓄積が無ければ、こう簡単には事は運ばないだろうが。

 組み立て上がった椅子を整形する。この椅子は、全ての部材が三次元的な曲面になっているので、表面を美しく滑らかに仕上げるのに手間がかかる。また、部材の接続部が連続した曲面で繋がっているので、その部分の加工も面倒である。「こういうことをするのに何の意味があるのだろう」という徒労感に苛まれた。同じような性格の椅子であるCatは、既にたくさんの制作実績があるから、似たような手間のかかる作業でも、粛々とこなしていける。今回のように、修正版とはいえ新しい形にトライする場合は、成功するか否か最後まで分からない。その不安があるから、徒労感もひとしおである。

 整形が終わり、塗装をした後に座編みに出す。座編みを終えれば完成である。座編みから戻った椅子に腰を降ろす瞬間も、またかなりの緊張感である。結論として、座り心地は良好であった。

 急いで制作した部分があったので、形を決める上でちょっと無理をしたところも、正直言って有る。いつもの私なら、もっとこまかく調整しただろう。あれこれ迷いだしたらきりが無いようなことを、延々とやるのがいつもの私である。今回は思い切りバッサリと決めた。そのことが、かえって新鮮な印象を作り出したように思う。出来上がった形は、思いの外好感が持てた。

 絵を描く人は「描き過ぎ」に注意しなければならないと言う。木工作家が椅子を作る際にも、本人の思い入れが強過ぎて、「やり過ぎ」に走ると、健全さを欠いた印象の作品になってしまうことがある。椅子の展示会に行くと、そのような印象の椅子を見かけたりする。私の椅子がどうであるか、他人が判断することであるから、自分からは何とも言えない。

 ただ、今回のケースで気が付いたことがある。時間的な制約を背負って制作する場合、手抜きに堕してしまう可能性がある。しかし、逆に限られた時間の中で、集中とか勢いとかいうものによって、好ましい作品が生まれることもありうるのではないか。良いものは、ある程度の幸運な偶然が無ければ生まれない。その幸運な偶然を誘い込むものは何か。あらためて創作というものの奥の深さを感じた数日間であった。





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